からだの語源
体の語源・由来
体は「殻(から)」に接続語「だ」が付いた語。
古くは、魂に対してそれを宿している身体、生命のこもらない肉体を「からだ」と言い、魂を宿した肉体は「身(み)」と言った。
つまり、身の外形部分が「体」であった。
平安時代には、セミが脱皮した後の抜け殻や死体などの意味で用いられ、いわゆる「亡骸(なきがら)」を指していた。
※語源由来辞典より
うちの指導員さんが作ってくれた動画です。
氣をつけておかねばならないことは
身が入っていない状態「殻が優位の状態」であっても普通に生活も出来れば仕事も出来る(こなせる)ということです。実際こういう事を日頃から意識していなければ、自分が「殻が優位」の状態なのかキチンと「身が入っている状態」なのかって判断できないようなこともありますからね。
日々の忙しさに心奪われてる時、嫌なことを無理してやってる時、自分に嘘をついてる時・・・なんて時には目の前のことにしっかりと向き合ってるつもりであっても、それは心が働いていないので雑で大雑把にこなしているだけ。
ただの「殻の作業」なんですよね。
そしてそれに流されるように毎日を生きていけば「殻」が優位の状態が続き、だんだんと無気力に・・・。大事な自分のエネルギー源である魂の働きを見失ってしまうように思います。
氣の稽古の目的と意味
それは意識体優位のカラダ作り
我々がやってる氣の稽古とは全身を「身」の入った状態にする、満たすための稽古。
魂、意識、氣の働きは目には見えない、そういう意味では同質のエネルギーの働きであり、魂の宿った「身」の状態でなければそれを感じるどころか使うことなど出来ないと私は思っているので、うちの道場ではとにかくこの順番を守り、稽古を組み立てています。意識体・エネルギー体(魂の働き)が主、そして肉体は従。
常に「魂の働きを主にしてカラダをどう活かすか」という順番で稽古を組み立てていますので、雑にこなすことは出来ません。一つ一つの動きを丁寧に、精妙に細部に至るまで身を入れる。
そんな稽古を続けているとだんだんと動きだけではなくも心も軽くなり、とにかく楽になってくるのですよ。
「私は重く苦しい人生を修行のように生きたい」という方にはオススメ出来ませんけどね。