道場にある”モノサシ”
私なりにではありますが、日々の稽古を通じてこう感じています。
結論から言うと
上達する人ほど自分のモノサシがなく、
行詰まりを生む人ほど自分のモノサシを手放さない
ということ。
上手くなる人ほど素直に”道場にあるモノサシ”で物事を判断しているということです。
特に我々の稽古のように「氣」や「感覚」といった目に見えないものを求める際、またその良し悪しを判断する際にやりがちなのが”自分のモノサシ”で判断してしまうということ。
しかしこれは場合によっては上達の妨げにしかならないことがあります。
特に経験や知識の豊富な方にこのような傾向がみられ、私の説明に対し「ああ、それは〇〇と同じでしょ」、「〇〇先生の著書にこう書いてあった」など、自分のものと結び付けて安易に自己判断に走りやすいように思います。
はたして同じでしょうか?
例えば
気功や太極拳、中国武術で言う「氣」と、大東流で言う「氣」。
大陸で生まれ育まれてきたものと、極東の島国で起こり育まれてきたもの。
合気道で言うところの「氣」と大東流で言う「氣」。
植芝盛平という人の経験と宗教観から生まれたものと、その源流の一つであり、武田惣角という人格が表したもの。
更には
大東流の他会派師範の言う「氣」と自分たちの求める「氣」。
武田先生の門弟たちがそれぞれの解釈によって起こした会派。更にそこから枝分かれした会派・・・。
そのものの”起こり”や”背景”が違う以上、私は同じものなど存在しないように思いますし、そこを別物として捉える必要があると思うのです。
そして私は其々に違うものとして尊重しているつもりです。
稽古に臨む時、そこにある本質を掴もうとする時には一切他のものを混ぜないこと。
ある程度本質が見えてくるまではくさ、
自分のモノサシやら手放して、
道場にあるモノサシで判断するごとせないかんばい。
そしてあんた、色んなものば混ぜよったら、ちゃっちゃくちゃらになって
いっちょん上達せんし、
いつまで経っても本質が見えてこんばい。
(最後は博多弁で〆る)
関連記事
大東流合気柔術 無限道場
道場長 竹内 研二