小さな開眼の積み重ね
私は合気稽古を
「身体動作を通じて小さな開眼を積み重ねていく」
ものであると捉えております。
ここでいう開眼は仏教用語のそれではなく、 『真実の道理を悟り、また物事の本質を悟り、こつをつかむこと。』 歴史民俗用語辞典より。
いきなり大きな何かを悟るといったものではなく、日頃の稽古によって得られるごく小さな気付きの積み重ねによって、気付けばそれが当たり前の感覚のように備わっていくもの。
日々の稽古で身体動作を通して得られるものの積み重ねによって、可視しにくい氣や気配が感じれるように、見えなかったものが観えるように・・・と感覚が高まっていくように思います。
そしてその感覚を得る、高めるということは他人に教えられて備わるものではない。大切なのは稽古の中で少しでも何かを得ようとする良い意味での貪欲さではないかと思います。
何かに気付けば更なる気付きを欲して貪欲に稽古に臨む。
「もっとこの先の何かが観たい。」
「もっとこの先の何かを感じたい。」
「もっとこの先にある何かに触れたい。」・・・
自ら自発的に気持ちを開く努力があってこそ『開眼』していくのではないでしょうか?
大東流合気柔術 無限道場
道場長 竹内 研二